人生

生きる意味はどこにあるのか?この問いに潜む隠れた前提を疑う

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どうもー投資の力でアーリーリタイアを目指しているミドリムシです。

ちょっと心と体がお疲れちゃんのサラリーマンが人生について考える迷走ブログの始まりです。

少しずつ体調の回復を感じていたのですが、寒の戻りと共に不調も戻ってまりました。

寒くなると動けなくる。私はそんな動物だと思うことにしますが、気づけばすっかり暖かくなり梅雨の気配すらしてきました。少しゆっくりし過ぎたかもしれません。

さて、だいぶ時間は経ちましたが前回の新章第6回目の記事はこちらです。

「本当の自分」を求めること。自分探しをすることがダサいのか?自分を探せていないのがダサいのか?

どうもー投資の力でアーリーリタイアを目指しているミドリムシです。 ちょっと心と体がお疲れちゃんのサラリーマンが人生について考える迷走ブログの始まりです。 少しずつ体調の回復を感じております。春だからで ...

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7回目の本日は、「仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える」を参考に生きる意味はどこにあるのかという問いを考えます。

この記事をご覧になって、何か思うところ、感じるところがあった方は書籍をご覧ください。

みなさん、一人一人の悩みにあったヒントを見つけられると思います。

それでは行きましょう!

 

「意味」と「意義」の取り違いが苦しさを生む

さて、生きる意味はどこにあるのかという深いテーマについて考える前に「意味」と「意義」という似た言葉の違いを抑えていきましょう。

 

辞書的な意味や、各学問的な意味は各所で定義されています。

しかし、「生きる意味」という問題を考えるうえではあまり参考にならないと筆者は言います。

そこで筆者は「意味」と「意義」を次のように定義づけしてます。

筆者の定義

  • 意義 :「価値」の有無を問うもの

価値があるもの = 意義がある

  • 意味 :「価値」の有無は問わないもの

主観的な満足感があるもの = 意味がある

もう少し、私なりに分類してみます。

ミドリムシ的超意訳

  • 意義: 頭で判断するもの
  • 意味: 心で感じるもの

この定義において、現代人が「生きる意味」を問う時にはついつい「生きる意義」、「生きる価値」について考えてしまっていると筆者は指摘します。

「意義」と「意味」を取り違えいるのです。

これを筆者は「有意義病」にかかっていると表現しています。

子供の頃から聞かされてきた「時間を有意義に使いましょう」「有意義な夏休みを過ごしましょう」といったスローガンにより、「何かする」ことを重視してきたことが原因です。

さらに筆者はうつ状態に落ちた人が自分を「価値のない存在」と責めてしまうのも、有意義な過ごし方ができなくなってしまった苦悩や自責によるものだと説明しています。

この説明は非常に思い当たるところがあります。

私自身、体が動かなくなり生産的な活動をできなくなった自分を「無価値な存在」と切り捨てました。

一方で、うつ状態になりながら「無価値な存在」になることに争っている人もいます。そのような人は、懸命に仕事とは別のことに取り組みながら自分を取り戻していきます。

 

では、生きる”意味”というものはあるのか

この「生きる意味はあるのか?」という問いに対して、「あります」とか「ありません」と答えることは適切でないと筆者は述べます。

それは答えがないということではなく、この問いの前提に潜む誤りを認識するところから始まるということです。

では、その前提とする誤りとはなんでしょうか?

それは、人生そのものにあらかじめ「意味」というものが備わっていると想定している点です。

「意味」というものは、あらかじめ固定的に存在しているものではありません。

「意味を求める」という行為によって出現する動的なものだということです。

筆者は、「生きる意味」を求めるという「意味への意志」こそが本質であり、「意味」の副産物である「快楽」や、「意味」を得るための手段でしかない「権力」を目標と考えることは本筋ではないと述べています。

もっと平たく言えば、会社で偉くなって認められたい!とか、金持ちになってやる!というものを人生の目標にするのは筋違い。

権力やお金は人生の目標を達成したときに得られる副産物であるということでしょう。

これは日本の資本主義の父と言われる渋沢栄一の名言「お金は働いて溜まるカスだ」に通ずるものがあります。

生きることの本質は、「生きることの意味を問う」というベクトルを向けることで自分が己の人生の主人公であろうとする一連の営みそのものにあるということです。

「本当の自分」を生きるということ

私たちの「頭」というコンピューターは、しばしばバグって物事を誤って認識することが知られています。

そのため、手段の目的化が発生するわけです。

良き学歴を得て良き就職をし、初期社会的地位や収入を得て、結婚し子供をもうけ、家を持ち、子供を良き学校に入れ、良き習い事をさせ、などなど。

これらは、幸せに生きるための手段に過ぎない事柄だったはずなのですが、いつの間にか、それら自体が目的化してしまったものなのです。

一方で、「心と身体」は、質を直感的に感じて味合うことができます。

働くことも違和感を感じるのもの、この「心と身体」の働きによるものでしょう。

この「心と身体」の働きこそが、人間本来の中心であり、ここで様々なことを「味合う」からこそ、私たちは幸せを感じるわけです。

つまり、人が生きる「意味」を感じられるのは、決して「価値」あることをなすことによってではなく、「心と身体」が様々なことを「味わい」、喜ぶことによって実現されるのです。

「本当の自分」というものは、どこか外に待ち受けていてくれるものではなく、自分の内部を、「心と身体」を中心とした生き物として自然な在り方に戻すことによって達成されるのです

 

「仕事探し」=「自分探し」は幻想

ミドリムシが就職活動をしていた2002年ごろから「仕事を通じて自己実現しよう」というスローガンが若者に対する労働へのインセンティブのような形で示されていました。

私は「自己実現」という言葉が全くピンと来ませんでした。

「何言ってんだ?」とそのスローガンを受け流して、収まりの良い企業に就職したのです。

ただ、40歳前になり働くことの意味や、自分が何をしたいのかという根本的な疑問にぶち当たり「自己実現」という言葉について知りたくなりました。

マズローの欲求5段階説の最上位に位置されている「自己実現」ですが、どのような定義なのでしょうか。

私がいちばんしっくりできた表現を引用します。

「偽りのない自分の姿で好きなことをして、それが社会貢献につながる状態」が「自己実現」である。

引用:indeed 「その使い方間違っている」誤用の多い「自己実現」の正しい意味とは

この表現が正しいと仮定すると、「仕事で自己実現しよう」とか「仕事を通して自己実現する」というスローガンに気持ち悪さを覚えます。

この気持ち悪さの根底は私が「仕事 = 雇われ仕事」という固定概念があることに起因します。

しかし、私が社会にでた2000年代前半に関して言えば、大学を出て社会にでることは「就職」と同義でした。少なくとも私の周りに独立する、起業するという人は一人として居ませんでした。

また、そのような環境下で自身も雇われの身である大人たちが「仕事で自己実現しよう」と若者たちを叱咤激励している姿を見て、当時の私は「自己実現」の意味を知らずとも本能的に拒否反応を起こしスルーしたのだと思います。

雇われの身で「偽りのない自分の姿で好きなことをして、それが社会貢献につながる状態」など実現できるのでしょうか。

できるのだとしたら、それは自身を「生粋の奴隷」という枠に収めることになると思うのです。

雇われの身として「就職」し社会にでることで、自己実現しようという矛盾したスローガンを雇われの身の人間が、声高らかに発信する。非常に良くできたギャグなのですが、このギャグを発信している人がギャグだと気づいていないのが怖いところです。

私の働くことへの違和感というのは、やはり本来は軽蔑の対象であった「労働」が賛美の対象となっていることへの違和感であり、それに大人たちが気づいていない気持ち悪さです。

ここから、筆者の考えを要点に絞ってお伝えします。

筆者は、「真の自分探し = 仕事探し」となっている昨今の状況について問題は2つあると整理しています。

  1. 「真の自己」を外に求めてしまっていること
  2. 「真の自己」を「職業」という狭い範囲に求めてしまっていること

1つ目の指摘は、前述のとおり「本当の自分というのは、自分の中心を心と身体に戻すことで達成されるもの」で外にあるものではないという点からも明確な指摘です。

2つ目の指摘もはっとさせられます。

いつのまにか、誰かが用意した組織で働くことが当たり前になっており、せっかく働くならより「自分らしく働こう」と組織で働くことが前提となっているのです。

これに対して筆者はいくつかの解決策を提供しています。

  1. 自分の心に従って、「仕事」や「活動」と呼べるものを自分で創出する(独立、好きを仕事にする)
  2. 理想の職業が用意されている幻想から脱却している前提で、自分の資質にかなった職に進路変更する(転職)
  3. いっそ働くことを中心に置かない生き方を模索する(山奥ニート)
  4. 「労働」に従事せざるを得ない場合においても、それをいかに自分が「仕事」と呼べるものに近づけているかを工夫する(やりがいを再構築)

そして筆者は次のように、述べて3章を結んでいます。

いずれにせよ、人間に与えられている知恵は「心と身体」に源泉があり、それは決して受動的で隷属的なことをよしとしません。「心と身体」を中心にした「本当の自分」という在り方は、能動性と創造性、そして何より遊びを生み出すものです。

キリスト教的な禁欲主義に端を発し、「転職」という概念の登場によって「働くこと」が人生の最重要課題として絞り込まれ、それが転倒して金を稼ぐことが賛美されて資本主義が登場し、いつしか浅はかな欲望を刺激し拡大再生産するこのモンスターが、我々の神となったのです。

これに奉仕すことを「召命」として人々に求めるもの、これが「労働教」の正体です。

しかし、一人一人の「心=身体」から湧き起こる知恵が、有能なマネージャーとして「頭」の理性を協働させ、社会に向かって動き出した時、必ずや既存の型におさまらない、その人らしい歩みが導き出されるはずです。

まとめ

「本当の自分」というのは、存在しているようです。

しかし、それはどこかに存在していて見つけられるのを待っているようなものではなく、追い求めることで出現する類のもののようです。

これは感覚的なものであり、その感覚を得るのは感覚や認識というものを「心」中心に回復できたときです。

生きる意味についても同様に、感じるものであり、これらを味わえる「心」の声に耳を傾けてあげ一緒に喜ぶことで実現されていくものです。

頭でっかちに「価値がある」ものを是として判断の中心に置くのではなく、自分の「心」が求めるものを是とした「心中心の生き方」にスライドできると楽に生きられると理解したミドリムシでした。

次回予告

「私たちはどこに向かえば良いのか」について考えます。

自由にしていいよ。

これは、ある人にとってはポジティブな言葉ですが、ある人にとってはネガティブな言葉です。

あらゆるものが充実して、足りないものが何もない現代で私たちは何をすればよいのでしょうか。

この問いについて考えます。

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