人生

自由に生きるためにどこに向かえばよいのか?

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どうもー投資の力でアーリーリタイアを目指しているミドリムシです。

ちょっと心と体がお疲れちゃんのサラリーマンが人生について考える迷走ブログの始まりです。

できるときに、できることをやる。ということで、珍しく1ヶ月以内の記事投稿ですw

空海の画像を入れたらだいぶ渋めの記事になりました……お楽しみください!

さて、前回の新章第7回目の記事はこちらです。

生きる意味はどこにあるのか?この問いに潜む隠れた前提を疑う

どうもー投資の力でアーリーリタイアを目指しているミドリムシです。 ちょっと心と体がお疲れちゃんのサラリーマンが人生について考える迷走ブログの始まりです。 少しずつ体調の回復を感じていたのですが、寒の戻 ...

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8回目の本日は、「仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える」を参考に自由に生きるためにどこに向かえばよいのかを考えます。

この記事をご覧になって、何か思うところ、感じるところがあった方は書籍をご覧ください。

みなさん、一人一人の悩みにあったヒントを見つけられると思います。

それでは行きましょう!

自由にやれといわれたときに困る人々

本書において、本当の自分を取り戻し「心」の赴くまま「自由に生きる」ことこそ、人間らしい生き方であるとされています。

あなたも親からの独立、育った地域からの独立、学校や会社からの独立など、所属する組織からの独立を経験しているはずです。

このような自由を求めての独立は、人間の成長の過程において極々自然なことだと思うのではないでしょうか。

しかし、このような○○からの自由というのは、フロムに言わせると「消極的な自由」に過ぎないというのです。

人は成長の過程でこの消極的な自由を獲得し、ある程度の自我を成長させます。

ですが、同時に孤独、不安、無力感や責任の重さなど様々な困難に直面します。

すると人は2つの行動に分かれます。

  1. 自由を諦めない人
  2. 自由を諦める人

自由を諦める人とは、自由を失っても不安から救い出してくれるような人間や外界に服従し、それらと関係を結ぼうとする人です。

もしかしたら、サラリーマンとして生きることを選んだ私も「自由を諦めた」人なのかもしれません。

エーリッヒ・フロム

エーリッヒ・フロム

ドイツの哲学者であるエーリッヒ・フロムは自由を諦めることの代償を次のように説明しています。

子供は精神的にも個性化の過程を逆行することはできない。

もしそうしようとすれば、それはどうしても服従の性格をおびることになる。

しかもそのような服従においては、権威とそれに服従する子供とのあいだの根本的な矛盾は、けっして除かれない。

子供は意識底には安定と満足とを感じるかもわからないが、無意識的には、自分が払っている代償が自分自身の強さと統一性の放棄であることを知っている。

引用:「自由からの逃走」 エーリッヒ・フロム

では、自由を諦めずに不安や孤独感、無意味感に負けないためにはどんなことが必要になるのでしょうか。

フロムは「積極的な自由」を実現するために欠かせない要素として「自発性」ということを強調します。

フロムの説明は、私には難しかったので「仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える」の筆者の解説をここでは引用します。

「自発性」というものがあれば、人は「絆」などというものに依らなくとも、新たに外界と結びつくことができる。しかも、その結びつき方は、依存と支配といったものではなく、互いの独立性が尊重されるようなものである。それが「愛」と呼ばれるものなのだ、とフロムは言っているのです。

引用:「仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える」 泉谷閑示

「愛」とかでてきちゃいました。

私自身、いよいよきな臭いブログになってきたと思います。

しかし、この後に筆者は自己愛にふれ、健全な「愛」の状態を太陽、不健全な状態を「月」に例えます。

私はその例えが「嫌われる勇気」にもつながる話だと気づき、どうも怪しい「愛」の話に真実味を感じることができました。

私が個人的に整理した「嫌われる勇気」との共通点に関しては、本記事の後半でふれることにしましょう。

愛が溢れたときに自発性が生まれる

ここからは、自己愛に対する筆者の解説を確認します。

「自分が自分を愛する」ということは、自家発電が行われている自律的存在としての太陽、すなわち燃えさかり輝き続ける太陽のイメージそのものです。

そして、この光と熱とは、自ら孤独の闇や寒さを払拭するのはもちろんのこと、その余剰エネルギーが周囲に惜しみなく放射され、それは何の見返りも期待しない無償の慈愛となります。

<中略>

月は、自らによって熱や光を生み出すことができないために、どうしても他から照らし温めてもらうことを求めざるを得ない。これが、「絆」にしがみついたり群れたがったりする心理を生んでしまいます。

そして、「自分が自分らしく在る」という「自由」を放棄してまでも、何かに服従してしまうことになってしまうのです。

「愛」の自家発電が行われない時、人はこのように依存的状態に陥りやすくなってしまうのです。

引用:「仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える」 泉谷閑示

つまり、真に自由を求めて強い個人として自律して生きていくには「愛」によって世界と結びつく他ない。

そして、外界と「愛」で結びつく前提として「自分が自分を愛する」ことで満たされている必要があるというのです。

このように「愛」というものが、人間の「自発性」を生み出し、「積極的な自由」を実現する鍵を握っているわけですが、しかし、この「愛」ほど誤って捉えらているものもないと筆者はいいます。

「あなたのためを思って」という言い方で、親の虚栄心や打算が偽装され、子供に押し付けらるような、欲望を偽装する大義名分としても用いられるからです。

あなたもこのような「愛」に対する嫌悪感を大小問わず持ってはいないでしょうか。

そこで筆者は次のように「愛」と「欲望」を定義しています。

愛とは、相手(対象)が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちである。

欲望とは、相手(対象)がこちらの思い取りになることを強要する気持ちである。

引用:「普通がいいという病 」 泉谷閑示

では、我々が「欲望」へのとらわれから脱し、「愛」に向かって成熟するためには、どうしたらよいでしょうか。

それにはまず、「欲望」を直視し、自覚することが大切です。

次に、「欲望」=「自分さえ良ければよい」という小さなエゴをより射程の大きなものに育てていくのです。

これが、嘘のない「愛」への道筋です。

このことを空海は、「小欲を大欲へと育てよ」という言い方で表現しました。

空海の肖像(真如様大師)

空海の肖像(真如様大師)

空海は欲望をゼロにすることは不可能であり、それができると思うことは自己欺瞞だとし、それを「遮情しゃじょう」として戒めたのです。

そして「遮情」により実現するのは欲望を抑圧して嫉み嫉みを溜め込んだ偽善者であることを知っていたのです。

溜め込まれた嫉み嫉みは、必ず生き生きと「自由」を謳歌している人間に向けられ、彼らを引きずり下ろそうとします。

人間は自分だけ窮屈であることが、どうにも許せないからです。

しかしそうは言っても、悪ガキのように露骨に「お前が楽しそうなのが気にいらない」などというわけにもいかないので、どうにか正当な理由で、自由な人間を引きずり下ろそうということになります。

そんな時、必ずや持ち出されるのが、いわゆる「道徳」というものです。

道徳から解放されよ

「道徳」に対する切り味鋭い、正論がこちらです。

道徳とは、われわれが個人的に嫌いなものに対して採る態度にすぎない。

引用:「オスカー・ワイルド全集」第3巻「箴言」より 西村孝次訳

 

道徳なんて考えだすのは、脳みそが弱ったせいだ。

引用;「ランボーの言葉」より 野内良三編訳

日本がどうも窮屈だと感じる人が増えているように思います。これは道徳を重んじる教育の結果なのかもしれませんね。

日本人よ、もっと自由に生きろ!(自分に言ってますw)

そのために、愛を持て。

まとめ

「自分らしく生きる」ということをどう取り戻すかというのが、前回まで。

生きる意味はどこにあるのか?この問いに潜む隠れた前提を疑う

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「自分らしく生きる」ということは、自立して自由に生きるってことになり、これは時に痛みを伴う。その痛みは、孤独とか不安とか責任だったり。

この痛みに負けないためには、愛に支えられた自発性によって外界とつながるとよい。

そのために、自分自身を愛すること。その愛が自発性を支えて、力が外へ向かうことで強い個として自立する。

エゴを拡大することが愛であり、自由を諦めない生き方につながっていく。

そんな話でした。

嫌われる勇気との符合

承認欲求は不自由を強いる という節の内容が、今回の「愛」の話と符合すると解釈しました。

「嫌われる勇気」は青年と哲人の対話形式で物語が進行していきます。

「承認欲求は不自由を強いる」という節で青年は、次のように述べます。

世の大人たちは「自由に生きろ」と言う。これは無責任な態度だ。

一方、親は「あの学校に入れ」、「安定した職につけ」と指示を出すのは、責任を全うしようとしている。

「自由に生きろ」というのは無責任であり、ある程度は指示して欲しいのだ。

これは、本記事でいう「自由からの逃避」にあたります。

他者の期待を満たすように生きることで、「いかに生きるか」という迷いから逃れている状態です。

哲人は、このような他人の評価を気にする「承認欲求」を中心とした生き方を否定します。

そして、「自由がなければ幸せはない」と続けます。

哲人は「幸せとは貢献感である」と説き、他人から認められることで得られる貢献感には自由がないと指摘するのです。

では、どうすれば承認欲求を必要とせずに、貢献感を感じられるのでしょうか。

この説明の詳細は本書に任せるとして、ここでは概略だけおさえていきます。

他者貢献を実現するためには、人を自分の仲間だと思える無条件の信頼(他者信頼)が必要です。

他者信頼を実現するためには、自分の力を自分で認めてあげる自己受容が必要です。

私が感じた、本記事の内容と「嫌われる勇気」の符合点を整理しました。

  1. 自己受容 = 自分自身を愛する。愛とは、そのままの姿で幸せになることを喜ぶ姿
  2. 他者信頼 = 愛という形で外界と結びつく
  3. 他者貢献 = エゴをより射程の広いものに育てていく

こういうつながりを発見できるから読書はやめられません。

次回予告

次回は「生きることを味合う」を考えます!

ではまた!!

 

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