人生

愛、芸術、美とその先の真理について少しだけ考えてみる

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どうもー投資の力でアーリーリタイアを目指しているミドリムシです。

ちょっと心と体がお疲れちゃんのサラリーマンが人生について考える迷走ブログの始まりです。

所属しているオンラインサロンで、前回の記事に反響をいただき心がホクホクしております。

褒められるとやる気になる。子供の心を忘れていないミドリムシです。

前回の新章第8回目の記事はこちらです。

自由に生きるためにどこに向かえばよいのか?

どうもー投資の力でアーリーリタイアを目指しているミドリムシです。 ちょっと心と体がお疲れちゃんのサラリーマンが人生について考える迷走ブログの始まりです。 できるときに、できることをやる。ということで、 ...

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ホクホクしているうちに、進めましょう。

ということで、9回目の本日は、「仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える」を参考に愛、芸術、美、真理についてすこーしだけ考えてみます。

「すこーしだけ」というのは、私には難儀だからです。

ただ一つ言えるのは、真理について知りたければ「鋼の錬金術師」を読んだ方がよいということです。真面目にです。

この記事をご覧になって、何か思うところ、感じるところがあった方は書籍をご覧ください。

みなさん、一人一人の悩みにあったヒントを見つけられると思います。

それでは行きましょう!

最も人間らしい姿とは?

私たちは「ハングリー・モチベーション」の時代が終わり、不足している何かがはっきりとしないゼロからプラスへと向かう世界を生きることになりました。

このような時代を生きる私たちは、自分でどこに向かうか決める必要があります。

そのため「愛」に支えられた「自発性」が求められるというのが前回までの話。

さて、この「自発性」はどのように人間に現れるものなのでしょうか。

フロムは「自由からの逃走」で次のように説明しています。

まず第一にわれわれは、自然で自発的であった人たちを知っている。

彼らの思考、感情、行為は、かれら自身の表現であり、自動人形の表現ではない。

これらのひとびとは多くは芸術家としてわれわれに知られている。

事実、芸術家は自分自身を自発的に表現できる個人と定義することができる。

<中略>

小さな子どもたちは自発性のもう一つの例である。

かれらは本当に自分のもの、、、、、を感じ、考える能力をもっている。

この自発性はかれらが話したり考えたりすることのうちに、また彼らの顔に表現される感情のうちにみられる。

引用:「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム著 日高六郎訳

このように人が「自発性」を発現した姿は芸術家のようであり、かつ、子どものような状態であるとフロムは言っているのです。

これは、ニーチェが「ツァラトゥストラ」の中で最も成熟した姿を「小児」として表現していたことに、見事に符合します。

ニーチェの肖像

ニーチェの肖像

小児は無垢である、忘却である。

新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、原始の運動、「しかり」という聖なる発語である。

そうだ、わたしの兄弟たちよ。

創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。

そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。

世界を離れて、おのれの世界を獲得する。

引用:「ツァラトゥストラ」ニーチェ著 手塚富雄訳

いやいや、若輩者のわたしには理解し難い表現です。

ニーチェは人間の変化成熟過程を駱駝らくだ獅子しし→小児という「三様の変化」として、比喩的に述べていることをおさえつつ、筆者の解説を頼ることにします。

道徳や規律の権化である「龍」に従う、勤勉で従順な「駱駝」であった自分。

この未熟な0人称の自分が、一人称的な主体を奪還すべく「獅子」となって「龍」を倒す。

そして「獅子」は、純粋無垢で創造的遊戯を行う超越的0人称である「小児」に変身します。

よって、この「小児」とは、「駱駝」の勤勉さや忍耐力も、「獅子」の怒りや独立心を内包した、ただ者ならぬ、、、、、、小児なのです。

未熟な0人称(駱駝)とは、社会に過度に適合した我々が「一人前の社会人」あるいは「大人」と呼んでいる状態の人です。

そこから、本当の自分というものを取り戻そうとする姿を「獅子」、一人称を取り戻した先に訪れる自分への執着が消えた境地を「小児」と表現しているという解説ですね。

このただ者ならぬ小児に対して、文字通りの小児は、無邪気で純粋で遊びに満ちてはいるものの、当然、邪なるものも横行する世俗への抵抗力が備えられていません。

ですから、子供が表現するものがいかに純粋で創造性に満ちていても、それを芸術として解釈するには何とも頼りないわけです。

芸術とは、邪なるものに曇らされた世俗に向かって決然と対峙して、そこで忘れられてしまった自然の本性、すなわち「美」を力強く表現することだと筆者は述べます。

美術家の岡本太郎も、「今日の芸術」のなかで次のように述べています。

岡本太郎 昭和28年、当時42歳

岡本太郎 昭和28年、当時42歳

子供の絵は、たしかにのびのびしているし、いきいきした自由感があります。

それは大きな魅力だし、無邪気さに凄みさえ感じることがあります。

しかし、よく考えてみてください。

その魅力は、われわれの全生活、全存在をゆさぶり動かさない。

なぜだろうか。

子供の自由は、このように戦いを経て、苦しみ、傷つき、その結果、獲得した自由ではないからです。

当然無自覚であり、さらにそれは許された自由、許されているあいだだけの自由です。

だから、力はない。

ほほえましく、楽しくても、無内容です。

<中略>

ところで、すぐれた芸術家の作品の中にある爆発する自由感は、芸術家が心身の全エネルギーをもって社会と対決し、戦いによって獲得する。

ますます強固におしはだかり、はばんでくる障害をのりこえて、うちひらく自由感です。

抵抗が強ければ強いほど、はげしくいどみ、耐え、そのような人間的内容が、おそろしいまでのセンセーション(感動)となって内蔵されているのです。

引用:「今日の芸術」岡本太郎著

このように、真の芸術家の在り方というものは、子供の持つ純粋さや創造性を保ちつつ、そこに力強く成熟したものを兼ね備えた、ただならぬ「小児」と呼ぶべきもののようです。

そして人間の成熟過程が、自由を束縛する様々なものと闘う「獅子」を経て、創造的遊戯を行う「小児」にまで辿り着くことであるなら、人は必ずや芸術的な存在となると筆者はいいます。

人は藝術品であるか、または藝術品を身につけるかすべきである。

引用:「オスカー・ワイルド全集」第3巻 西村孝次訳

 

芸術は人に不可欠なもの

私は、これまで芸術に触れてきませんでした。

「よくわからない」というのが、正直な感想です。

それでも20代の時にイタリア旅行で見た、「最後の晩餐」、「最後の審判」、「サン・ピエトロのピエタ」などは、圧倒的な存在感で私の心を揺さぶりました。

サン・ピエトロのピエタ

サン・ピエトロのピエタ

ですが、それは芸術を味わった結果ではなく、みんなが美味しいと評価しているからきっと美味しいんだろう程度の心の動きだったように思います。

どうも芸術と私の距離が縮まらないのは、受け取る側の味覚にもある程度の成熟が求められるという「どこか試されている感覚」を無意識的に感じているからかもしれません。

あるいは、ファッションや贅沢品として扱われる芸術に対しての冷たい軽蔑かもしれません。

この点について、筆者は芸術の本質というものを鋭く見抜き次のように表現しています。

人が真に成熟していくこととは、すなわち芸術的な存在に向かって成熟していくことであり、これこそが、他の動物にはない人間ならではの豊かさです。

したがって、芸術というもは、多くの人が思い違いしているような、あってもなくても良いような代物ではありません。

<中略>

いわんや、他人にひけらかすための「教養」でもないし、空虚な生活を飾り立てるための「アクセサリー」でもありません。

つまり、芸術とは人間であるために「不可欠なもの」であって、決して「剰余として」身にまとうような贅沢品ではないのです。

<中略>

社会適応するだけの人生に飽きたらず、人間の深層に向き合い、そこから湧き上がってくる「真実」の表現。

それこそが芸術なのだ。

これまで人が人らしく生きるということは、人生や世界に向かって「意味」を求めるというベクトルを出すことであり、ベクトルの源泉は「愛」であると筆者は説明していました。

そこに、新たに「芸術」という要素が加わりました。

『人間の深層に向き合い(その源泉は愛)、そこから湧き上がってくる「真実」の表現が芸術』であり、『成熟した人の存在自体もまた芸術的である』から芸術は人に不可欠だということです。

美の先には真理がある

ここまで、芸術とは何かというものを中心に確認してきました。

自分で文章におこしていながら、正直のところ消化不良を起こしております。

消化不良のまま話を先に進めることにします。

しかし、というか当然ながら消化不良であるがゆえに、ここから先はかなりサクッとまとめていきます。

詳細な解説については、私の「心」が芸術を味わえるほどに成熟するまでお待ちくださいw

美しさに到達した人(「小児」に到達した人)が、すぐれた芸術に触れると美しさの背後に真理が隠されていることに気づくと言います。

真理とは、「自然の法則」、「生の法則」、「万法」です。

私は体験したことが無いので全くわかりませんが、「真理」が表現されている芸術に出会った時、「その通り!」という強い共鳴や共感が引き起こされると筆者はいいます。

どのような感覚かというと、悠久の昔からDNAレベルで刻まれている真理があって、「頭」では理解していないが「心」では知っているという状態。

そこに、真理が表現された芸術が現れると「心」が「そうそう、その通り。これはこのように表現されるのが正解だ!」と感動するというのです。

いやいや、私のキャパを超えてきました……このまま、結びの文節をご紹介することにします。

私たち人間が、真の「芸術」に触れて感じる喜びは、私たちの魂がかつて知っていた「悠久なるもの」との再会の喜びであり、「孤独」を生きなければならないという宿命を負った生き物同士に交わされる、魂の対話の喜びなのです。

この一文を読んだ時に、私はふと「鋼の錬金術師」の最終回を思い出したのです。

主人公と真理が対峙し、真理がニヤッと笑うシーンですね。

実は「鋼の錬金術師」を思い出したのは、この一節だけではないのです。

本書で曹洞宗の開祖となった道元禅師の残した有名な言葉を紹介する部分がそうです。

仏道の修行とは、自分自身を知ることである。

自分自身を知るというのは、自分を忘れるということである。

自分を忘れるというのは、万物の法則に従うことである。

万物の法則に従うというのは、自己意識は自他の区別を捨てるということである。

そして悟りを得た痕跡などどこにも残さずに、そのあり方を永続的に続けることである。

まるで「鋼の錬金術師」のキーワード「一は全、全は一」を示しているように感じたわけです。

どうも真理を知るには、もう一度「鋼の錬金術師」を読む必要がありそうですね。(自分が読みたいだけかも)

まとめ

最も人間らしい姿とは、社会適応するだけの人生に飽きたらず、自分らしさを取り戻して無邪気に創造的遊戯を行う子供のような芸術家のような姿。

世俗的なもの(怠けたい、楽して儲けたいなど)に争い、芸術的な存在に向かって成熟していくことが、人間らしい豊かさである。

自分が成熟し、すぐれた芸術にふれた時、「真理」を経験し魂が感動する。

つまり、「鋼の錬金術師」を読もう。

次回

新章10回目。ついに完結か?乞うご期待!

 

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