どうもー投資の力でアーリーリタイアを目指しているミドリムシです。
ちょっと心と体がお疲れちゃんのサラリーマンが人生について考える迷走ブログの始まりです。
体調が悪い日が続いており、なかなか活動できない日々が続いています。
前回の新章第4回目の記事はこちらです。
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何のために働くのか?物足りなさを感じる30代の結論
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5回目の本日は、「仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える」を参考に「仕事」の凋落と「働くこと」への違和感を見ていきます。
この記事をご覧になって、何か思うところ、感じるところがあった方は書籍をご覧ください。
みなさん、一人一人の悩みにあったヒントを見つけられると思います。
それでは行きましょう!
「仕事」の凋落
ギリシャ時代において「仕事」は、必然性により縛られる「労働」とは異なり、必然性からは距離をおいたより人間らしい生産活動という定義であった。というのが、前回まで。
しかし、私は現在の日本において「仕事」の地位は「労働」と変わらないものに落ちているように感じます。
その点において、筆者は次のように説明しています。
産業革命以来始まった大量生産というものは、人間の熟練や専門家によってなされていた「仕事」というものを、バラバラな断片に分業化された「労働」というものに貶めてしまったのです。
さらにつけ加えて言えば、現代の分業化による「労働」では、本来「労働」で得られていたはずの生命の「至福と喜び」が得られないどころか、むしろ虚無感や徒労感を産み出すものになってしまっていることも深刻な問題だと言えるでしょう。
このように分業化された「労働」によって生産された製品は、もはや「仕事」が生み出したような、長く大切に使う作品ではなくなり、どんどん消費することが求められる単なる消費財になってしまいました。アレントは、そんな現代の「消費社会」の中で、唯一生き残っている「仕事」と呼べるものは芸術くらいのものであろう、と述べています。
<中略>
いつの間にか人々は、人間らしい「観賞生活」を失ったのみならず、人間らしい「仕事」も失って<労働する動物>に成り下がり、歯車のような「労働」によって次々に消費財を生み出しては、取り憑かれたようにこれを消費するという、人間らしからぬ状態に陥ってしまったのです。
つまり、私たちの現代とは、決してギリシャ時代よりも進捗したのではなく、皆が<労働する動物>という名の奴隷以下の存在に成り下がってしまい、人間らしい「観賞」も「仕事」も見失ってしまった時代なのです。
そんな本末転倒の時代にあって、少しでも人間らしい在り方を求める者は、『それから』の代助のように「食う為」だけの<労働する動物>に成り下がることを潔しとせず、「観賞生活」を求めて「高等遊民」という浮遊した在り方を選ばざるを得ないということもあり得るわけです。
出典:仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える
実感が伴うだけに、説得力を感じる説明です。
仕事が生産性・効率性を重視して高度に分業化された、その結果、現代の仕事と呼んでいるものの多くは、小さな歯車のような「労働」になってしまった。
私の場合で言えば、予算会議のためのデータ収集や、形骸化した施策発表会のための資料作成、ガラパゴス化した謎の社内ルールに対応するための資料作成や会議です。
これらは「長く大切に使う作品」とは到底いえず、会議が終われば役目を終える一体なにをしているのか・・・途方もない虚無感や徒労感を生み出すものになっています。
まるで「誰かの仕事」を作るための仕事(労働)となっており、充実感を見失ってしまったのです。
さてさて、仕事が労働に成り下がった現代ですが
それでも「働かずもの食うべからず」という言葉や、「勤労の義務」、もっと言えば「金銭的余裕があるからって働かないのはどうなの?」という議論も含め、働くことに対する必然性や美徳のような価値観はどこからやってきたのでしょうか。
なぜ「労働」が賛美されるようになったのか
この問いに筆者は、マルティン・ルッターが聖書翻訳で登場させた「天職(ブルーフ:Beruf)」という概念から始まったと解説しています。
ルッター以前の労働の価値観は、「食事と同じで必要不可欠だが、それ自体は道徳に関わりがないもの」という価値観だったようなんですね。
ギリシャ時代の価値観と同じといってもよいのではないでしょうか。
カトリックにおいては修道院内での禁欲的生活が最高の道徳的なありかたであるとされていたところを
ルッターは世俗内(教会外の一般社会)で勤勉に働くことが神の意志に沿う道徳的な行いだとしたのです。
この概念が「天職」ということのようです。
天職 = 自分が今生きている社会(世俗内)で勤勉に働くことが神の意志に最もかなうこと
という考えですね。
ということで、仕事なんかしたくねーという話から宗教の話に発展してまいりましたね。
この「天職」という考えが派生していく過程でより先鋭化していったようです。その代表的使徒であったバックスターの主著の内容に触れ、次のように紹介されています。
<中略>
ところで、労働はそれ以上のもだ。いや端的に、何にもまして、神の定めたまうた生活の自己目的なのだ。
「働こうとしないものは食べることもしてはならない」というパウロの命題は無条件に、また、誰にでも当てはまる。
労働意欲がないことは恩恵の地位を喪失した徴候なのだ。
<中略>
財産のあるものも労働せずに食ってはならない。
なぜなら、自分の必要を満たすために労働することはないとしても、貧者と同様に従わねばならぬ神の誡命が存在するからなのだ。
けだし、神の摂理によってだれにも差別なく天職である一つの職業がそなえられていて、人々はそれを見わけて、それにおいて働かねばならぬ。
キリスト教ではない私でも聞いたことのある「働かざるもの食うべからず」という言葉は、こんなところに起源を持っていたとは、なんとも驚くべきことです。
資本主義とは、単に経済システムだけではなくキリスト教的倫理観を含むものであったということです。
私たちはキリスト教の輸入と同時に、知らず知らずのうちに、「労働」に禁欲的に従事すべしという「資本主義の精神のエートス」も輸入していたのかもしれません。
アメリカにおいては、労働への勤勉さの背景にあった「世俗内禁欲」という宗教的・倫理的な意味合いは失われ、ある種のスポーツのようなマネーゲームへと変貌しています。
ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは、マネーゲームに興じていく文化の最後に現れる人間の姿を「精神のない専門人、心情のない享楽人」と表現し、資本主義のいく末に警鐘を鳴らしました。
「仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える」の筆者は、「精神のない専門人、心情のない享楽人」を次のように解釈しています。
「精神のない専門人、心情のない享楽人」とは、まさに「労働する動物」のことであり
人間らしい「世界」を形成できずに「労働」によって生み出された消費財を消費することによってしか時間を埋めることができずにいる
受動的な現代人の姿そのものなのです。
出典:仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える
さて、ここまで「仕事」の地位が堕ちていく過程を見てきました。
ぼちぼち、最初の問いである「働くこと」の違和感の正体に話を戻していきましょう。
「働くこと」の違和感の正体
ここまでのアレントやヴェーバーの議論を参照した上で、筆者は次のようにまとめています。
本来は人間的な手応えを得られるはずの「仕事」といものが、いつのまにやら「労働」というものに吸収合併され、すっかり変質してしまったということ。
そして、「労働」こそが価値を生むものだという「労働価値説」が社会経済の根本的価値となってしまったとこと。
さらに、古来は最も価値あることとされていた静かな「観照生活」の意味はすっかり忘れ去られて、単に惰性で非生産的なものとしてしか捉えられなくなってしまったこと。
また、ひたむきに「天職」を遂行することが「世俗内禁欲」という徳のある生き方であるというプロテスタントの価値観が出発点となって、「労働」して稼ぐことこそが善行であるとされるようになったこと。
そして、そこから資本主義というものが生み出され、「働かざる者食うべからず」といった「資本主義の精神のエートス」が力を持ってしまったこと。
つまり、ラファルグの「資本教」をもじって言うならば、「労働教」という宗教にすっかり近・現代人が取り憑かれてしまったということ。
そういった諸々が、「働くこと」を奴隷的で非人間的なのものにしてしまったのです。
「高等遊民」の抱いた違和感とは、そういうおかしな生き方への、真っ当な違和感であったのではないでしょうか。
出典:仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える
なるほど、ちょっと自分ごとに置き換えてみますと次のように解釈できそうです。
人間的な手応えを得られるはずの「仕事」が変貌していき、奴隷的で非人間的なものになっている中で
さらに、たちの悪いことに「働くことは美徳」という借り物の価値観をもってしまっている。
だから、違和感しかない。
このような違和感を多くの人が感じているのでしょう。
それが昨今のFIREムーブメントの1要因といえるのではないでしょうか。
それでは、我々はどうすればよいのでしょうか。
まさか、古代ギリシャ市民のように奴隷制を基盤とした生活を求めるわけにはいきません。もちろん、倫理的にもすべきではない。
奴隷の代わりになるものとして、機械化やITによる情報化が高度に実現されてきたはずなのに一向に労働から解放されない。ベーシックインカムに関する議論が始まってはいますが実現はまだ先でしょう。
むしろ、IT機器の奴隷のように、いつでも、どこでも、長時間働ける環境が整ってしまったと言う本末転倒な状態です。
アレントも言っていたように「労働」から完全に離れることは、人間から活力を奪うでしょう。しかし、生活のほとんどが「労働」に占められている生活は人間的とは呼び難い。
ここで「労働」をすべきか否かという二律背反に考えてしまっては行き詰まってしまいます。
そこで筆者は次のような考えを示し、第2章を結んでいます。
アレントのいった意味での「仕事」の福建や「活動」というものへの目覚め、そして忘却されて久しい「観照」というものを、たとえわずかであっても日々の生活の中に復活させることが大切なのではないでしょうか。
量の次元になっていまっている種々の「労働」を、「仕事」と言う質のあるものに移行させていくことを、これから私たちは真剣に考えなければならないのです。
人間らしい「世界」を取り戻すためには、儲かるとか役に立つとかいった「意義」や「価値」をひたすら追求する「資本主義の精神のエートス」というものから各々が目覚めて、生き物としても人間としても「意味」が感じられるような生き方を模索すること。
この狭き道こそが、これからの私たちに求められている課題であり、希望なのです。
出典:仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える
つまり、「意味」を感じられないと悩んでいる現状は本質的な悩みであり、これを模索した先に充実した人間らしい「世界」がまっているということですね。
以上、2章によって現在の仕事に「意味」を感じれないのは、実のところ資本主義の仕組みのうえに載っている「仕事」は「労働」に成り下がっているケースが大半であり、そのなかで「意味」を感じられないのは必然である!という結論でした。
そして、「意義」や「価値」といった量をひたすら追求する世界線の先には空虚な未来しかまっておらず、質を追求し「意味」を感じられる生き方を模索していくのが唯一の希望!という、少々寂しい気がする結論でしたね。
次回予告!
「意味」を感じられる生き方を模索する!?
その先にまっている新たな闇とは・・・
次回、「意味」を追求したら「生きる意味」にぶち当たる。「自分らしさや」、「本当の自分」を求めることに「意味」はあるのか?に迫ります。
いやほんとにいい本に出会えました。本質的な問いに迫っており、読み応えがあります。一方、古典的な文献からの引用については筆者なりの見解が示されており、わかりやすいのでグングン読めちゃいます。
今の仕事や、仕事ばかりの生活に疑問を持っている方におすすめです。