どうもー投資の力でアーリーリタイアを目指しているミドリムシです。
ちょっと心と体がお疲れちゃんのサラリーマンが人生について考える迷走ブログの始まりです。
前回の新章第9回目の記事はこちらです。
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愛、芸術、美とその先の真理について少しだけ考えてみる
どうもー投資の力でアーリーリタイアを目指しているミドリムシです。 ちょっと心と体がお疲れちゃんのサラリーマンが人生について考える迷走ブログの始まりです。 所属しているオンラインサロンで、前回の記事に反 ...
前回は、芸術と真理について見ていきました。
10回目の本日は、「仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える」を参考に生きる意味を味わうためのマインドについて考えます。
この記事をご覧になって、何か思うところ、感じるところがあった方は書籍をご覧ください。
みなさん、一人一人の悩みにあったヒントを見つけられると思います。
それでは行きましょう!
日常に「遊び」を取り戻す
「生きる意味」とは、どこかにあるものでなく、人生に「意味を問う」ベクトルを向け続けることによって感じられるものであるということを過去の記事で確認しました。
さて、ベクトルを向け続けるとは具体的にどのようなことを指すのでしょうか。
正直申し上げて、私の日常はキラキラしたものではく、何でもないものです。
とはいえ、私の時間の殆どは「日常」が占めているわけですから、この「日常」を色褪せたルーティーンから脱却させるのかが重要な鍵だと思うのです。
つまり、「日常」をいかにして非日常化して、区別なく味わいできるものにできるかが問われてきます。
人生の時間をまるごと「遊ぶ」ことができるのか?という問いと言えるでしょう。
これは、前回の記事でもふれたニーチェの表現にも付合します。
ニーチェは人間の最も成熟したあり方を「小児」という象徴で語りました。
この「小児」とは「創造という遊戯」で満ちた存在です。
創造が最高の遊戯であり、「遊ぶ」とはすなわち創造的であることです。
私はこれを現代社会で体現しているのが、両学長や中田敦彦さんだと思っています。
ただ、楽しく毎日を過ごせといわれても「いやいや、生活するためには仕事する必要があるよね?」という大きな壁が立ちはだかるのではないでしょうか。
残酷にも思えますが、これが現実だと思っています。
自由な人生を送るために「お金」は必要です。
しかし、お金のために自由を手放すのは違うとも思っています。
目的だったはずの自由な人生が、ツールであったはずのお金のために犠牲になる。
お金のためであっても勤勉に労働に勤しむ姿が、清く正しいと思うことにしている姿には疑問を感じます。
このような指摘は、古今東西、多くの知識人により行われてきました。
ここでは、アメリカの画家であるロバート・ヘンライの言葉をご紹介します。
金だけが大事だと信じている人は、自分を欺いている。
芸術家が教えているのは、小さな子供が無心で遊ぶように、人生も熱中して遊ぶべきだということである。
ただし、それは成熟した遊びである。
人の頭脳を駆使した遊びである。それが芸術であり、革新である。
人生を味合うのは容易なことではない。
ある人は、稼がなければならないという。
だが、なんのために?
人はなんのために生きるのか?
まるで、ほとんどの人が生計の資をえるためだけに生きていて、他には何もできないかのようだ。
ゴールのないレースで先を争っている自動車。
使うあてがないのに、ひたすら増やすだけの金。
無目的なままの「快楽」の追求。
どれも人の内面とは関係がなく、すべて表面的なものばかりだ。
ここで述べられている「人生も熱中して遊ぶべきだ」、それは「成熟した遊び」であるべきだということ。
これを体現しているのが真の芸術家であるというのです。
もし、成熟した人間が芸術のようであるならば(前回の記事参照)、成熟した遊びに熱中する姿勢はあらゆる人間にとって欠かせないものでしょう。
しかし、残念なことに私たちの周りには勤勉で禁欲的であることを美徳とするマゾヒスティックな精神風土が根強く残っています。
わかりやすい目標があった時代、言い換えると何が足りないのか明確だった時代であれば、禁欲的に働くことで一定の満足感を得られたでしょう。
ですが、今日ではむしろ私たちの生活を蝕んで、生きる意味を喪失させる大きな原因になってしまっています。
人生を「味合う」ことが、どこか背徳的なことであるかのようにみなされて、「労働」という苦役を果たした後に、やっと「ご褒美」でわずかに許されるものという価値観です。
少し変化の兆しはあるのでしょうが、休みずらいとか自分だけ早く帰りずらいというのは、まさに典型的な表れでしょう。
食への態度が人生への態度と一致するという仮説
私には耳に痛い話です。
私にとって、食事とは栄養補給以外の意味はなく、義務的なルーティーンワークです。
筆者は、食事というのは「生きること」の大切な基本をなしているのだから、これが「感動」もない義務なら人生はすっかり味気ないものになると言います。
もし食事が仕方なしにこなす義務のようになっているとすれば、生き方自体が「仕方なしにこなす」ようなものになっていることを表している。
この筆者の指摘には、ドキッとさせられます。
私は、料理が面倒でたまらないです。自分で料理するなら食べないことを選択します。
その結果、1日1食なんていう日もあります。
筆者は精神科医ですから、うつ病の患者の治療にもあたっています。
そのような精神療法の中で、患者は苦悩や症状が緩和されるにつれて、「量」に偏っていた価値観に変化が起こるようになると言います。
それまで囚われていた「量」的な価値観から「質」の大切さへと目が開かれ、「ぞんざいなもの」や「おざなりなもの」が身の回りに溢れていることに気づくようになり、それらを一掃せずにはいられなくなるというのです。
これも「頭」中心の生活から、「心」を取り戻して中心に置いた生活を取り戻した姿の1つではないでしょうか。
合理的な選択を追求したら遊べなくなった
誰しも子供時代には、自然に「遊び」に夢中になっていたはずなのですが、それがどうして私の生活から遠のいたのでしょう。
筆者は、貨幣経済が大きな要因を占めると言います。
貨幣経済はあらゆるものを「量」に還元し、取引可能とした発明です。
しかし、「質」は「量」に還元できないし、人間や社会、人生などという「複雑系」のことには全く歯が立たないのは感覚的にわかると思います。
それでも私たちは、「ライフプランニング」といって人生を設計してみたりします。
徹底した効率主義に侵されて、何をするにも次のようなことを考えていたりしませんか?
- それは何の役に立つのか?
- 損なのか、得なのか?
- コストパフォーマンスはどうなのか?
- 期待する結果が得られる可能性は高いか?
- メリットは?デメリットは?
- どんなリスクがどのくらいの確率で起きる?
私は見事に当てはまります。
このような合理的な選択を突き詰めていくと、「遊び」、「趣味」のようなものにリソースを投入することが無駄に見えていきました。
その結果、年収や役職、会社からの評価という目に見えるもの、もっというと「お金」に直結するようなものを追い求める傾向に拍車がかかるのです。
そうやって、遊びがない選択を自ら繰り返すうち、人生そのもののが「意味」が感じられない味気ないものになっていったのです。
生活を「遊ぶ」ための工夫
このように「遊び」から遠ざけられてしまうのは「頭」の働きによるものです。
「頭」あっての人間ですから、この「頭」とどう付き合っていくかを考えていきましょう。
筆者は2つの提案をしてくれます。
- 即興に委ねる
- めんどくさいを楽しむ
即興に委ねる
「頭」の計画性や合理性を回避するために、対極にある「即興」を積極的に用いる方法です。
具体的には、目的を決めないぶらり旅です。
交差点に差し掛かったら右に行くか、左に行くかを「心=身体」に聞いてみる。
足がどちらに一歩進めるのか。車なら指がウインカーをどちらに出すのか。
このようにして行き着いた場所で、「さてどう楽しむか?」というお題が出されたと思って楽しむ。
これは、子供時代の冒険に相当する遊びになることでしょう。
他にも書店で何を買うのか決めずに店内を循環してみる。
何となく目についた本を手に取ってパラパラ眺めると、予想もしなかった出会いがあるでしょう。
これは私もよくやります。
ですが、「まだ読んでない本があるから」と買わないことがしばしばあります。
この点、筆者はすぐに読まなければと考える必要はないと言います。
積読になってもよい。
自分の本棚に、その本があるだけで十分に意味があるというのです。
5年後か10年後になってふと、その本を手に取るタイミングが訪れる。
このような曖昧で不思議な偶然によるものを楽しむということです。
めんどくさいを楽しむ
「頭」には、そもそも効率よく結果を得ようとする性質があります。
めんどくさいという感覚は、この性質から生じるものです。
個人的に重要だと思うのは、めんどくさいは「心の声」ではないということです。
「頭」の合理性が導き出しているものです。
ですから、「頭」に惑わされないためにあえて「時間がかかるから、いい暇つぶしになる」と考えてみる。
子供の時に憧れていた楽器を大人になって始めてみるのもめんどくさいですよね。
どれを買えば良いかと悩み、どうやって引けば良いかと悩み。
すぐには上手くいかないというところが、とても良いわけです。
プロになるわけでもないのですから、「きちんと習わなければ」と考える必要もありません。
あれこれ教本を買ってきても良いし、ネットの動画で調べてもよい。
自分なりの試行錯誤で、ゆっくりできるようになればよい。
そもそも、人生の暇つぶしの「遊び」なのですから。
このように見ていくと、「継続は力なり」、「三日坊主」という言葉に呪われていることに気づきます。
このような「ひとたび始めたら、何者かになるまで精進せよ」というストイックな鎧を身につけてフットワークが重くなっていると思うのです。
これでは、軽みのある「好奇心」や「遊び心」が萎縮するはずです。
「心」の向くまま気の向くまま気軽にやってみる。
気が向かなければやらない。
「継続」などと堅苦しく考えたりせず、ただ壮大な人生の暇つぶしとして「遊ぶ」ことが試されています。
「アリとキリギリス」の呪い
子供のころの教育とは、恐ろしいなと感じます。
童話「アリとキリギリス」も私たちに呪いをかけていると思いませんか。
この物語に登場するアリは勤勉さや忍耐の象徴で、このアリのように生きるべきという目標にされる存在として示されてきたのではないでしょうか?
しかし、イソップ物語をよくみると「蟻」というタイトルで、アリがそもそも何者であったかについて語られています。
そこには、目標とされるアリの姿はありません。
現在の蟻は昔は人間でした。
そうして農業に専念しましたが、自分の労働の結果では満足しないで、他人のものにまで羨望の目を向けて始終隣人たちの果実を盗んでばかりいました。
ゼウスは彼の欲張りなのにお腹立ちになって、その姿を蟻と呼ばれているこの動物にお変えになりました。
しかし彼はその姿を変えてもその気質は変えられませんでした。
というのは今日に至るまで彼らは田畑を這い回って他人の小麦や大麦をかき集めて、自分達のために蓄えるのですから。
この話は、生まれつきわる人々は非常にひどく懲らしめられても、その性格を変えない、ということを明らかにしています。
元々のアリは、貪欲でケチな存在の象徴だったようです。
それがいつの間にか労働教により、賛美される対象としてのアリ像に変貌していったのです。
作られた偶像のように勤勉に忍耐強く働くことで「今を生きること」を犠牲にしてせっせと貯め込んではみたものの、特にこれといった使い道はなく、結局のところ使いきれなかった遺産が、残された者たちの骨肉の相続争いの種になる。
これはかなりポピュラーな顛末でしょう。
このようなアリ信仰は、禁欲的に労働して未来に備えることを過度に賛美し、その反作用として「今を生きる」「生きることを楽しむ」ことを良からぬこととして捉えるような、倒錯した価値観を生み出しました。
この価値観のもとで「生きる意味を感じる」ことは難しいでしょう。
なぜなら、「苦しいこと」、「我慢すること」こそ正当なことで、「楽しむこと」「心地よいこと」は堕落だとして罪悪感を覚える。
そういうマインドでは窮屈な人生になるからです。
人間とは面白いものです。
動物なら迷わず「快」を求めるでしょう。ですが人間の「頭」が邪魔をします。
芸術の道に生きる人が、不真面目なものであるかのように貶められているのも問題です。
生きることを謳歌し、美に生きることが「労働」よりもくだらないこととして扱われてしまうのだとしたら、それは人間性の大いなる堕落です。
虫レベルのアリマインドが人間の人間らしさを嘲笑しているという、実に由々しき事態です。
「働けば自由になる」、「働かざる者くうべからず」という標榜に、貴重な「人間らしい生」を犠牲にしてはならない。
このような価値観から自らを解放し、堂々と美と喜びに満ちた日々を生きる。
それが「生きる意味」を感じられる人間らしい生なのかもしれません。
まとめ
いかにして、遊びを日常に取り戻していくか。
そのためには、人間特有の「頭」を合理主義から楽しむ方向へと協働させる工夫が必要なのかもしれない。
即興という計画とは無縁な冒険の演出であったり、手間がかかることをありがたがる姿勢だったりが日常と非日常の境界を曖昧にさせるヒントです。
アリとキリギリスの呪いから解き放たれ、堂々と人生を謳歌する道を選択する時がきました。
それは、坂道を転がるように欲望に身を任せる生き方ではありません。
意志を持ち、自由に生きることで生じる不安や、責任に正面から争う。
そうやって生きていく中で、苦しむこともあるでしょう。
しかし、それでもなお生きる意味へベクトルをむけ続けていくことが、人間らしく生きていくということ。
そんな話でした。
これにて新章閉幕。
これからは、それぞれの道で生きる意味を感じる日々を送っていきましょう。
解散!!
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新章開幕|中年の危機に立ち向かう
どうもー投資の力でアーリーリタイアを目指しているミドリムシです。 最近、めっきり投資ブログではなくなっています。 ですが、気にしません。私のブログなので。 今日から新章開幕! 完全に開き直って書きたい ...
「アリとキリギリス」のアリのような生き方の否定は、この書籍でも行われていました。
私も大きく共感したものです。
こう考えると、私も昔の人と同じようにちゃんと間違えて生きてこれたということかもしれません。